.保木薬師堂

 美しが丘西、保木地区に「保木薬師堂」がある。保木も古い地名であったと思われる。保木薬師堂にある薬師如来坐像は、鎌倉時代の承久3年(西暦1221年)在銘の古仏である。
昭和58年神奈川県指定重要文化財に指定されて、現在神奈川県立歴史博物館に寄託している。毎年9月12日の命日に保木の堂に戻り、護摩法要が営まれる。

保木薬師堂 保木薬師の縁起の立て札

2.平川の灯籠

 元石川町平川の寛永寺前のバス停を右に入ると平川の大灯籠と呼ばれる立派な灯籠が道の十字路の右側角に立っている。大きい灯籠が道端に有るのには驚かされる。灯籠は、一番上の宝珠から下部の基礎部分まで完全な姿を残している。
この灯籠については、次のような話が残っている。それは幕末に石川村から一人の娘さんが江戸の薩摩屋敷に奉公に行ったそうである。
その娘さんが、明治維新となり奉公を終えて村に帰る際に、記念にということでこの灯籠を貰い受けてきたのだと言われる。このため、人々は誰言うともなく「薩摩灯籠」と呼ぶようになったと伝えられる。
灯籠から先に行くと「尾作谷戸」に出る。この谷戸の中程に幕末に寺子屋の師匠をしていた岩崎家がある。岩崎家から更に奥に進むと黒沼家がある。
黒沼家の裏手の竹薮がある平坦な所はもと釈迦堂があった場所と言われている。いつ頃廃堂になったか不明であるが竹薮の中に釈迦堂関係の僧侶の墓が4基程建っている。
この辺りは静かで散策をするには絶好の所である。また「寛永寺」の方へ坂を昇っていくのも好い。里山の景色がすばらしい所である。
寛永寺バス停から早渕川は道路の中央を流れるようになる。川を下って行くと右側に「玉泉寺」がある。寺の前を通り過ぎて「平崎橋」の交差点まで行き、たまプラーザ駅から来た道を右折し、嶮山方向に行くと「満願寺」バス停がある。

3.満願寺

 満願寺バス停の手前を左折して少し行くと右側に「満願寺」がある。真言宗のお寺で、400年前にすでに存在したと言われる古刹であり、山門がその古さを感じさせる。この寺は徳川2代将軍秀忠の位牌が安置されている。石川村は江戸時代秀忠夫人の化粧料地であった
満願寺

その理由は、この満願寺が芝増上寺(徳川家の菩提寺)の裏鬼門に当たる地だからである。裏鬼門は貢、東北の鬼門の反対で南西の凶方位を指す。この裏鬼門の結果、守護の役割を満願寺が与えられていることから石川村は増上寺の山内に年を納めていたという。
山内とは、寺の内又は寺の境内という意味で、これを訓読して「やまうち」となり、山内村はここから来ているという説、伝えがある。江戸時代、石川村は、幕府を霊的に守る重要な土地であった。
また、墓地には、自由民権運動に身をささげた(明治10年代に)1人の民権家金子馬之助の墓がある。
馬之助は、石川村に少年達の教育を重点に置いた結社育英社を設立した。当時の東京毎日新聞にも報道され話題とされた。(大正12年10月、66歳の生涯を閉じた。)

4.神明社の獅子舞(牛込地区)

平崎橋から川を下り新橋(山内中学校前バス停)を右折してすぐ左折すると右側に神明社がある。神社の創建は不詳であるが、元禄年間以前からあったと聞く。
この獅子舞は元禄年間に流行した悪疫を退散させる為に神社に奉納したと伝えられていることから可也古い神社といえる。
牛込の獅子舞は神奈川県の無形文化財に認定されていて、その姿は1人立ち3頭獅子と言って獅子頭を頭につけ腹に太鼓をしばり、これを叩きながら長笛と太鼓に合わせて3頭の獅子が華やかに踊り獅子舞には9人の少年が関わり、いずれも牛込地区に生まれた長男に限られていたが、今では男以外の男子も踊るようになった。牛込辺りの早渕川は、最近まで曲折して流れていたようである。昔は新橋辺りでは、旧道に沿って流れていたと聞く。川の土手には桜が植えられ、春には見事に咲いたといわれる。
神明社

5.荏子田の家型横穴古墳

荏子田1丁目の荏子田朝日公園の隣に古墳時代の家型横穴古墳が保存されている。この横穴墓は死者を納め安置した玄室が家型に掘られ棟木や垂木、側柱等が見事に浮彫に表現されている。地元の人々は、この横穴をカンカン穴と呼んでいる。(調査は、昭和3年5月に行ったとの記録あり。)玄室とは奥深い部屋という意味。
荏子田の家型横穴古墳

6.新橋の北側に残る旧道

 早渕川にかかる新橋の北側に旧道が現存し、山内地区を通り、東名高速道の下まで残っている。驚神社の祭礼の時は、保木、平川、荏子田、牛込、船頭、宮元のはやし連が繰り出されて賑やかに通るのである。平常は人通りも少なく静かな道である。

7.あざみ野駅周辺の早渕川の現状

 つ早渕川は3面コンクリート造りで被われていてあざみ野駅近くのダイオー辺りまでは、水の透明度は非常によく、山内地区に入ると急に汚れが目立のである。
それはダイオーの下の下水管から出て来る下水があざみ野2〜3丁目辺りから来る生活用水と新石川2丁目たまプラーザ方面から来る生活用水と考えられる。
ある時は汚水を、ある時は白い水が流れて来るのである。
 ダイオーの脇から山内地区にかけて川の中は、ごみ捨て場となり、自転車といろいろのごみの投棄が多い。早渕川の全流域の中では一番醜い場所ではなかろうか。昨年(2002年)行政の力で清掃したのが記憶に新しい。

8.山内地区

 山内地区は近世の面影と建物が残る貴重な所である。あざみ野駅前の1等地に野本家のわら葺家屋が現存している。何時建てられたかは定かではない。
うっそうと木が茂っている。昔から変わらぬ姿である。又、山内地区の旧道沿いには酒屋、鍛冶屋、雑貨屋の家屋が現存している。特に古いのは驚神社であろう。平安時代からあったと伝えられている。又、山内小学校も120年前の創立と言われている。
 飼石川村について「変りゆく古里写真集」の著者根本藤吉氏のはじめの言葉に「美しや すすきあざみや 新石と石川の牧、面影は消ゆ」と、良馬を育合し平安の朝廷へ献上した牧であった石川村、鎧武者が通ったであろう鎌倉道の名残、水車がコト、コトと廻り、エビや小鮒を捕った早渕川、白百が咲き、蛍が乱舞する谷間・・・・
 又、山内村の誕生については、明治22年に町村制が敷かれ、石川村と荏田村は山内村となったが、役場の建設場所をめぐってなかなか意見がまとまらず、昭和2年になってやっと現在のJA横浜北農協山内支所の場所に設置された。

9.驚神社(おどろき じんじゃ)

驚神社の縁起については不明な点が多く、僅かの伝承があるのみである。山内地区の旧道の丘に鎮守の驚神社が祀られている。
神奈川県神社誌でによると「往古より石川牧の総鎮守なりと伝えられる」とし、古代御牧の一つ石川牧に因むとしている。明治期の地誌「大日本国誌」は起「都筑郡石川村字日向ニ在リ境内弐百七拾坪素盛鳴命ヲ祀ル創建未詳境内石階三拾六級松杉雑樹数十株アリ社号ノ所謂ヲ詳カニセズ」とし縁は不明としている。
 一方「新編武蔵風土記稿」をみると石川村の條に驚神社がなく鷺明神社となっている。
驚明神にを誤って鷺明神と記してしまったのであろう。地元の人に驚神社のことを聞くと、古くから祀られており、いつ創建されたかは判らない、ある人よると250年前に建てられたと聞いているとも言う。
また昔から元石川は名馬がよく出た場所であったから驚の社号は、馬を敬ったことに由来するのだと言う。
又、郷土史家の戸倉英太郎は「都筑の丘に拾う」で驚の社号について、「驚の社号はもと早渕川の水音から生まれて"トドロキ"であったのではなからふか、さうして此の社は此の関門の守護神であり水を守り給ふた神であるから"トドロキ"と神を崇められた、それが後に"ヲドロキ"と転化し驚の漢字を用いたものと言いたいのである」と推定している。
又、境内の由来碑によると畠山重忠が中の道を往来の都度参詣したとの記述もあることから鎌倉時代前よりあったのではなかろうか。
 驚神社の祭礼は10月10日である。又、石川各地区の谷戸宮の祭礼でもある。
保木には十社宮、平川は平川神社、荏子田は八幡社、船頭は御嶽社、牛込は神明社と各地区では正午に石川の中央部に当たる堂前(現在の早渕川かかる平崎橋周辺)に集結して驚神社へと奉献行列を組み進むのである。
保木は大太鼓、平川は御輿と山車、牛込は文化財に指定されている「1人立ち3頭獅子舞」そして驚神社の地元の中村、下谷は宮元として御輿と山車をくり出すのである。
その中での圧巻は牛込の獅子舞である。きらびやかな衣装は元禄絵巻そのままの姿である。
私もカメラをかついで祭礼の行列に参加させていただいた貴重な一日を過ごさせていただいた思い出がある。
驚神社

10.石川牧

 石川村から鴨志田村にかけて牧(牧場)が何箇所かあった。草競馬も盛んに行われた。石川村の中に(現在の江田高校の東)直線コースで200m位の競馬場(馬かけ場)があったといわれる。
又、鴨志田の甲神社の西側には今でも観覧席の格好の地形が残る。ここで競馬が第2次世界大戦前まで行われたといわれる。
又、鎌倉時代、源頼朝の名馬(するすみ)と畠山重忠の名馬(三日月)もこの石川村から献上され、先祖代々から伝えられる話だと言われる。
石川・荏田・鴨志田村は、中世の頃、鎌倉街道の中の道を通っていた吾妻鏡に出てくる石河六郎、江田小次郎、鴨志田十郎等の御家人達もこの付近の出身であることも考えられる。
一方荏田在の真福寺、保木薬師堂には平安期から鎌倉時代にかけての石仏が安置されているのを見ても、この地に古くから仏教が入っていたことも地武士層を中心とした集落が営まれ馬が交通の足として利用されたのではなかろうか。

11.鎌倉街道と矢倉沢往還の交差

 で鎌倉街道中の道支道と矢倉沢往還(大山道)とが荏田宿の東側入口で合一交差をしている。鎌倉街道中の道と矢倉沢往還とは古くから同一ルートある。
二子玉川から溝の口、有馬、中川、荏田の東側で中の道の支道と合一交差する。中の道支道のルートは登戸から生田、蔵敷、美しが丘、新石川を通り、荏田の東側で矢倉沢往還と合一交差する。
両街道は合一交差した先は、鎌倉街道は支道と一本の道となり南へ川和町から中山町、白根町、鶴ヶ峰、下永谷市民の森、舞岡公園、本郷台、大船を通り鎌倉へ。
矢倉沢往還は西へ市ヶ尾から青葉台、長津田、鶴間、海老名、厚木、松田町、開成町、矢倉沢関所、足柄峠を越えて沼津、吉原で東海道と合一するのである。

12.荏田宿

 宿は西に向かって下宿、中宿、上宿とに分かれていた。往還筋に35軒の宿と店が文久3年頃(1863年)あったと言われる。
荏田は江戸時代芝増上寺領で、矢倉沢往還の宿場として栄えたのは寛文の時代の頃からで(1660年〜)数多くの寺社もあり、常夜灯、唐申塔などが今でも残っており昔の面影を留めている。
天保2年(1831年)渡辺崋山が39才の時、江戸巣鴨の下屋敷より相州高座郡早川村(現在の綾瀬市役所早川城周辺)を訪れる時に崋山がこの旅を日記にしたものが「游相(ゆうそう)日記」である。
この荏田宿旅籠屋升屋喜兵衛方に宿泊したことが記されている。それは升屋喜兵衛が当時俳句をよくしていたので共に語ろうと升屋の主人とその夜遅くまで語らい又同宿していた2人の旅人にも絵を画いて与えている。

13.荏田の真福寺

荏田の真福寺は、国道246号荏田町の交差点を綱島方面に300m程入った右手の山ふところにある。現在真福寺と呼んでいるが元は観音堂と称していた。
大正年間、寺が老朽化したため本尊並びに釈迦如来立像などを観音堂に移し、現在に到っている。観音堂には千手観音立像、釈迦如来立像、阿弥陀如来立像が安置されている。
千手観音立像は真福寺の本尊で平安時代末期の作とされ、関東では古い仏像の作の一つであると言われる。
釈迦如来立像は鎌倉時代の清涼式釈迦如来立像と呼ばれる仏像で国の重要文化財に指定さている。
真福寺

14.荏田の無量廃寺

寺址は矢倉沢往還の荏田宿に隣接した交通の要所に建てられた寺であった。しかし、今の寺址はすっかり住宅地となり寺の面影を偲ぶものは殆ど残されていない。
僅かに寺に係わるものとしては、歴代の住職墓と明徳3年(1392年)在銘の中世年号を刻む五輪塔が残されているだけである。
寺は甘露山九品院と言い一旦廃寺となったが文禄年間(1592年〜96年)に法印賢栄又は堅祐という僧が再興し、宗旨を真言宗に改めたと伝えられる。これにより王禅寺(川崎市麻生区)の末寺となったと記されている。
真福寺や無量廃寺界隈には、鎌倉期から南北朝期にかけて寺院経営をする在地武士層の居住があったと推定される。荏田は中世の都筑の地において仏教文化が栄えていた所であった。無量廃寺も中世からの法灯を伝えて来た古寺であったことがわかる。
無量廃寺

15.茅ヶ崎の杉山神社

鶴見川流域に分布する杉山神社は、港北区、都筑区、緑区、青葉区域には21社あり、鶴見川の最上流にある杉山神社は支流の麻生川上流部稲城市平尾にある杉山神社と言われる。
これら神社の立地を見ると、何れも流域の一段高い場所に祀られている。杉山神社の歴史は古く、1000年以上の年月を経た由緒ある古社が旧武蔵国都筑郡には有ると記されている。
そこで神社の本社はどこにあるかと言うと、現在有力視されている杉山神社としては、西八朔町、茅ヶ崎町、大棚町、新吉田町に有る4社とされている。この4社それぞれに本社としての主張がなされてきた。
そのと内の茅ヶ崎町の杉山神社は「新編武蔵風土記稿」によると、(1)神名帳に載っている。(2)社伝を載せている。(3)鍵取助之丞の遠祖は杉山姓していた。彼の家には系図や記録が伝わっている。
4社の内から1社を断定することは難しい。

16.茅ヶ崎城

市営地下鉄センター南駅の東側の山の上にこんもりした森である築城について「新編武蔵風土記稿」によれば、治安年間(1027〜23年)頃、多田行綱が築城したとの言い伝えがあるが、小室栄一氏によると後北條氏関係の人々によって築かれたことが明らかにされた。
従って茅ヶ崎城の築城者は後北條氏に関係のある武将とみて間違いないと言われる。武田信玄の小田原侵攻に(1569年)際しても荏田城の名は記されているが、茅ヶ崎城の名は記されていないと言われる。このことはもはや城としての存在価値が失われていたのかもしれない。
茅ヶ崎城

17.中原街道と勝田橋(かちたばし)

 勝田橋は、その昔「泥橋」とも言われ、それはひどい橋であったと伝えられる。橋の両側の交差点は変則的で今日では交通量の多い所に架設された橋である。
中原街道は近世以前は相州道又は奥州街道と言われていた。中原街道を徳川家康は天正18年8月(1590年)の入府時以来鷹狩に又、江戸と駿府との往復にしばしば利用している。
又、この道は東海道より距離が短く、山や、坂も少なく川止めの心配や、参勤交代時の渋滞に合わぬことなどから、人々に盛んに利用された。
それに江戸が巨大都市化されると沿道地域の産物などの運送に頻繁に使用された。
 道程は・・・江戸から(神奈川県平塚市)相模の中原である。
虎ノ門〜五反田〜洗足〜丸子橋(多摩川)〜小杉〜久末〜大棚〜勝田(早渕川)〜佐江戸(鶴見川)〜中山〜白根〜都岡〜瀬谷〜深谷〜寒川(相模川)〜玉枡〜平塚中原へ

18.天然記念物ミヤコタナゴ発祥地

 早渕川沿いの池にミヤコタナゴが生存していたと聞いて、びっくり仰天したのである。その話を土地の古老お2人から現地で伺った。(平成12年11月12日)
場所は早渕川の勝田橋下流500〜600m程の矢橋の手前を右に入った勝田小学校下で現在造成済みでフェンスで区切られており池の様子は全くなく跡形もない所である。話によると中学校建設予定地と言われている5〜6m程の土盛りされた小高い場所である。池が埋められる以前、悲惨な出来事があった。それは子供が池に落ちて亡くなりその後柵が設けられ荒れ放題であった。
又、池を埋める時に使われた建設機械のブルドーザ及びシャベルローダが落ちてそのまま放置された状態で土盛りをして埋めた(昭和53年)とのことである。
 悲しい思い出の残る池でもあり、幻の池でもある。池の名は権田池といい、池の名からいって権化(ごんげ)=仏がかりに姿を変えてこの世に現れる、の意味、語源から来ているのではと、私なりに推察してみたりしたのである。
埋め立てる前の池は魚種が豊富で、鯉、鮒、鯰、オイカワ、ウグイ等10数種の魚が生息していたと言われる。当時釣人はミヤコタナゴが生息していることは誰も気付かず、ただ銀鮒であろう位の呼び方で網ですくい、又、うどん粉を練って釣っていたという。近在からの釣人も多く来ていたと言われる。
池の水深はかなり深かったようである。ミヤコタナゴが確認されたのは、当時小学生が網ですくうか、釣ったか、家に持ち帰り関係方面で調べてもらい確認され、ミヤコタナゴであるとわかり本格的調査が始まったと言われる。
現在、神奈川県内水面試験場(相模原市)と寺家ふるさと村の四季の家の水槽に子孫が残されている。

19.オシャモジ様

都筑中央公園の北側、茅ヶ崎2160番にある五輪塔であるが、砂岩質のため非常に風化が著しい。上部の空、風輪は存在しない。
オシャモジ様は、旧茅ヶ崎町2255番地付近にあったものを移転したもので、池田次郎吉宅で世話をしている。風邪の神を祀ると言われ風邪にかかるとお参りし快復するとオシャモジを奉げる。この他家内安全にもご利益があると言われる。
オシャモジ様

20.正覚寺

茅ヶ崎城の南側、茅ヶ崎東3―12。寺院縁起については村の巽(東南)の方にあり、天台宗金蔵寺末寺である。山門を入って本堂と参道の間に瀬々山等木があり年中枯れることのない清水に蛍が生息し、初夏にはその乱舞が見られる。境内は緑に恵まれ桜、菖蒲、紫陽花等、四季に花が咲き、水の美を得た寺である。脇の池には花菖蒲が作られ、梅雨時には参詣者の目を楽しませてくれる。
正覚寺

21.鎌田堂

 中原街道と第三京浜(R466)との間に有る(東山田1393)。由来について鎌田兵衛正清(源頼朝の父義朝に殉じた)の館が背後にあったことからこの名が付いたと言われる。

22.東山田公民館

 が東山田町1300。旧浄土宗東林山三宝寺跡である。この寺は江戸下谷幡随院の末寺で、建長7年(1255年)鎌田兵衛正清の菩提を弔った記録ある。鎌倉期から存在したものと思われる。然し寺院を偲ぶ物は何もない。

23.のちめ不動尊

東山田町1156。縁起は文久4年の上棟式木札が有る。ご本尊は不動明王像で、この像は口伝によると甲州武田家の守り神であっ

た由緒あるもので(修復時に天保2年卯月(1831年)志村又右衛門源貞口「甲州出身の領主」の銘が発見されている)。文久4年二〆(のちめ)城山の住人が八王子(武田遺臣居住地)から背負って勧誘したと言われる。
のちめ不動尊

24.諏訪神社

綱島駅の北東。綱島東2−10−1。由緒・沿革について、綱島は昔、綱島三郎信照の郷で、永禄の頃武田家の家臣が信濃国諏訪明神を勧請し、社殿を建立した。荒井権現を祀る。文化2年(1806年)、寛保年間に(1741〜44年)代官手代として早渕川改修と鶴見川堤防修築工事に貢献した荒井平吉を約70年後に村人が顕彰したものである。

25.稲毛道、旧綱島街道

 高田町と綱島西4丁目の間。早渕川の高田橋から新川橋に至る左岸側に沿って稲毛道が通っている。この道は、江戸幕府により神奈川宿が助郷役に組み込まれたことにより、稲毛道が発達した。稲毛道は神奈川宿から矢倉沢往還の溝の口に至る道で、元禄年間以降(1690年代〜)経済の大動脈として大いに賑わいをみせた産業道路であった。横浜開港に関連し大きく寄与した道である。

稲毛道

WPのTOPへ